奥の細道の記述

元禄2年8月13日~8月21日
(新暦9月26日~10月4日)

敦賀
漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。
あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。
鴬の関を過て湯尾(ゆのお )峠を越れば、燧が城、かへるやまに初鴈を聞て、十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ。

とうとう白根が嶽が見えなくなり、かわって比那が嶽(越前市武生の日野山)が姿をあらわした。
あさむづの橋を渡ると玉江の蘆は穂を実らせている。
鶯の関を過ぎて、湯尾峠を越えると、木曽義仲ゆかりの燧が城があり、 帰る山に雁の初音を聞き、十四日の夕暮れ、敦賀の津で宿をとった。

その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと、 あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。
仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる。 おまへの白砂霜を敷るがごとし。
往昔遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ泥渟をかはかせて、 参詣往来の煩なし。

  月清し遊行のもてる砂の上
十五日、亭主の詞にたがはず雨降。
  名月や北国日和定なき

その夜の月は特に見事だった。「明日の夜もこんな素晴らしい名月が見れるでしょうか」というと、 「越路では明日の夜が晴れるか曇るか、予測のつかないものです」と主人に酒を勧められ、気比神社に夜参した。
仲哀天皇をおまつりしてある。境内は神々しい雰囲気に満ちていて、松の梢の間に月の光が漏れている。 神前の白砂は霜を敷き詰めたようだ。
昔、遊行二世の上人が、大きな願いを思い立たれ、自ら草を刈り、土石を運んできて、湿地にそれを流し、 人が歩けるように整備された。だから現在、参詣に行き来するのに全く困らない。 この先例が今でもすたれず、代々の上人が神前に砂をお運びになり、不自由なく参詣できるようにしているのだ。 「これを遊行の砂持ちと言っております」と亭主は語った。
  月清し遊行のもてる砂の上
 (意味)その昔、遊行二世上人が気比明神への
  参詣を楽にするために運んだという白砂。
  その白砂の上に清らかな月が輝いている。
  砂の表面に月が反射してきれいだ。
  清らかな眺めだ。
十五日、亭主の言葉どおり、雨が降った。
  名月や北国日和定なき
 (意味)今夜は中秋の名月を期待していたのに
  、あいにく雨になってしまった。
  本当に北国の天気は変わりやすいものなのだ
  な。

種の浜
十六日、空霽たればますほの小貝ひろはんと種の濱に舟を走す。
海上七里あり。天屋何某と云もの、 破篭小竹筒などこまやかにしたゝめさせ、僕あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。濱はわづかなる海士の小家にて侘しき
  寂しさや須磨にかちたる濱の秋
  波の間や小貝にまじる萩の塵
其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。

十六日、空が晴れたので西行の歌にある「ますほの小貝」を拾おうと海上を七里舟を走らせ、色の浜を目指した。
天屋なにがしという者が弁当箱や酒の入った竹筒を心細かに用意してくれ、下人を多く案内のために舟に乗せてくれた。 追い風だったので普通より早く色の浜に到着した。 浜にはわずかに漁師の小家があるだけだ。侘しげな法華寺があり、そこで茶を飲み、酒を温めなどした。 この浜の夕暮れの寂しさは格別心に迫るものだった。
  寂しさや須磨にかちたる浜の秋
  (意味)光源氏が配流された須磨は淋しい場
    所として知られるが、ここ種の浜は須磨
    よりはるかに淋しいことよ。
  波の間や小貝にまじる萩の塵
  (意味)波打ち際の波の間をよく見ると、
   小貝に混じって赤い萩の花が塵のように散
   っている。

大垣
路通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。
駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、 越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子荊口父子、其外したしき人〃日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、 且悦び且いたはる。
旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、 又舟にのりて
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

路通もこの港まで迎えに出てきて、美濃の国へ同行してくれた。
馬に乗って大垣の庄に入ると、 曾良も伊勢から来て合流し、越人も馬を飛ばしてきて、如行の家に集合した。 前川子・荊口父子、その他の親しい人々が日夜訪問して、まるで死んで蘇った人に会うように、 喜んだりいたわってくれたりした。
旅の疲れもまだ取れないままに、九月六日になったので、伊勢の遷宮を拝むため、また舟に乗って旅立つのだった。
  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
  (意味)離れがたい蛤のふたと身が別れてい   くように、お別れの時が来た。 私は二見浦   へ旅立っていく。もう秋も過ぎ去ろうとし   ている。

芭蕉の福井から敦賀を経て大垣までの足取り

 芭蕉が等栽と共に福井を出立して敦賀に向ったのは恐らく元禄2年8月13日(陽暦9月26日) の朝だと考えられている。 等栽は「裾おかしゅうからげて」うきうきと道案内に立ったと奥の細道に記されている。 先ず蘆と月の名所である玉江を通り、 朝六つの橋を渡り、次のような句を詠んでいる。
     月見せよ 玉江の芦を 刈らぬ先
     朝六ツや 月見の旅の 明けはなれ

 北陸道を更に南下すると上鯖江、府中(現在の越前市武生)、今宿、脇本、鯖波と宿場が続く。 脇本と鯖波の間に
    うぐいすの 啼きつる声にさそはれて ゆきもやられぬ 関の原かな
という歌の歌枕になっているうぐいすの関(関ヶ鼻)があったが、芭蕉が通った頃はその関はなくなっていた。

 関ケ鼻集落の次の宿が湯尾で、そこから旧北国街道は「湯尾峠」に上り、今庄宿に下り、そこで一泊したと思われる。
「湯尾峠」で芭蕉は
     月に名を 包みかねてや いもの神「月一夜十五句」
というおかしみのある句を詠んでいる。「いも」は疱瘡のあばたの跡のことだそうです。句意は『ここは疱瘡の神という あまり人に好かれな い名前だけに普段はひっそりとしているのであろうが、 今宵は八月十五夜の月、別名 「疱瘡又は芋の月」というくらいだから、その名前も自然と表に出て隠しきれなくなるのであろう。』

今庄を過ぎ、県道207号線に入り、 脇道に入ると「燧ヶ城」址に到る。この城は木曽義仲が平家と対峙した時、味方の裏切りによって敗れた所である。芭蕉はそれを偲び
     義仲の 寝覚めの山か 月悲し
と詠んでいる。 その句碑は此処ではなく倶利伽羅峠に置かれている。

 今庄から道は二手に分かれ、南下して栃の木峠を越えて行くのが北陸道で東近江に通ずる。 西へ道をとって木の芽峠を越えて行けば越前の国敦賀に通ずる。今庄で一泊した芭蕉と等栽は翌日、木の芽峠に向った。 標高628mの木の芽峠は『越の中山』とも言われ、木曽義仲や水戸天狗党も通ったところである。芭蕉はこの木の芽峠で
      中山や 越路も月は また命   (芭蕉翁月一夜十五句)の句を詠んだ。 これは東海道の小夜の中山で西行法師が69才の時に詠んだ
     年たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山 西行
の歌を思い浮かべて詠んだ句であると思われるが、峠には句碑は置かれていない。  

 元禄2年8月14日(陽暦9月27日)の夕暮れ、芭蕉は等栽は敦賀の唐仁橋町(現在の相生町)の旅籠出雲屋に到着した。 その5日前に曽良が敦賀に到着して、出雲屋に1両を預けておいたので待遇は良かったようだ。 所で、山中温泉で芭蕉と別れた後の曽良の行動は芭蕉の行く先々に廻り、手紙や金子を預けるなど精力的に動いていて、 とても病人とは思えない。矢張り山中での別れは曽良の腹痛みの所為以外の理由があったのかも知れないと考えられる。

  出雲屋に着くと直ぐに2人は金ヶ崎城跡に行き  
     月いづく 鐘は沈める 海の底
の句を作った。新田義貞の軍が敗れた時の陣鐘を後で引き揚げようとしたが、逆さに沈んでいて引き揚げられなかった話を聞い て詠んだという。その夜は晴れたが、北国の天気は変わり易いと宿の主に言われて中秋の名月の前夜だが、気比神社に参詣した。 翌15日は雨になって月見は出来なかったようだが、天屋玄流宅や金前寺出向いたと言われている。

 16日は晴天で、天屋何某の舟で種の浜(いろがはま)に渡った。天屋何某は天屋五郎右衛門という回船問屋で、 俳号を玄流という敦賀有数の商人で、恐らく酒田の廻船問屋からの紹介状があったのだろう、船に食べ物や酒を積み込み、 多くの下僕を従えて賑やかな舟旅であったという。

  種の浜(色ヶ浜)がある敦賀半島には当時道が通じておらず、船でなければ行けなかったが、 現在は敦賀原発に通じる立派な道路があり、敦賀市街地から1時間足らずで行ける様になった。 色ヶ浜の本隆寺は日蓮宗の寺で日隆上人を開基としており、境内には芭蕉がここを尋ねる因になった西行の
     潮染むる ますほの小貝ひろふとて 色の濱とはいふにやあるらむ 西行
の歌碑があるので、芭蕉も
     寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋
と詠んだ。

 芭蕉が何日間敦賀に滞在したかは不明であるが、恐らく8月19日頃迎えにきた路通と一緒に馬に乗って出発した。 敦賀から大垣まではおよ2日の距離であるので、恐らく途中近江の木之本で一泊したと考えられる。

 敦賀から近江木之本までの道は3通りあると考えられている。その第1は深坂峠越えの最短距離の古道で、平安初期の延喜式に規定された塩などの物資輸送の官道であり、紫式部も越前の往き帰りに通った道であったが、この道は急坂が連続する難所があったので次第にすたれていったという。第2のルートは疋田から麻生口を経て新道野(しんどうの)越えの塩津街道のルートであるという。 この道は比較的勾配も緩やかで塩津街道の福滋県境には西村屋孫兵衛茶屋があり、私達も通ったので筆者はこのルート説を採りたい。第3のルートは疋田から東に進んで刀根から倉坂峠を越え柳ヶ瀬経由で木之本に出る道で、歌枕の多い余呉湖を通るので芭蕉一行はこのルートを取ったのではないかという学者もある。

  木之本からは伊吹山を左側に仰ぎながら北国脇往還を行き、小谷城のあった小谷(おだに)や春照(すいじょう)を経て、 関ケ原から中山道を通り大垣に入った。

 大垣船町港に着いたのは元禄2年8月20日(陽暦10月3日)といわれている。 元禄2年3月27日(陽暦5月16日)江戸深川を発って以来140日掛かって600里(2400㎞)の道程を踏破した長旅であった。 大垣中の多くの門人に迎えられ、如行宅に草鞋を脱いだ。先行した曽良も9月3日に伊勢から来て再会を果たしている。 大垣に15日間滞在して歓待され、俳宴を重ねた後、次の句を詠んで新たな伊勢への旅に出立した。
     蛤の ふたみにわかれ 行秋ぞ

福井から敦賀を経て結びの地大垣へのルート地図

地図は拡大・縮小出来ます。ドラッグして移動も出来ます。地形図指定で3D表示も出来ます。

赤線は芭蕉一行が辿ったルートです。 青線は筆者の辿ったルート。

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